2018年3月2日金曜日

分岐点

人生には一度以上の分岐点、ターニングポイントがあると思います。

私の場合は4歳で父の仕事の関係でニューヨークに住んだことがまず一番のターニングポイントです。ニューヨークに五年間住んでいなければプラハにはいないし、全国通訳案内士にもなっていなかったと思います。

次のターニングポイントは中学の時の学習塾です。ここの塾に行かなければプラハには絶対住んでいません。何故ならこの塾長の紹介で、しかも直接の紹介でバイトを始めたからです。

通っていた学習塾は大手でもローカルの有名校でもなく、所沢市小手指町にある小さな学習塾。北野中の生徒がほとんどでしたが、向陽中の生徒もおりました。この塾を選んだ理由は同じ卓球部のT君が通っていたから。自宅からも歩いて5分ぐらいでしたし、少数精鋭ぽいうえ、先生も良かったので中学二年時から卒業まで一番上のクラスで勉強させて頂きました。思えば私の年上の人と仲良くなるというのはこの時に生まれたのでしょう。授業前や授業後、授業の無い時に塾長や先生とかと雑談をする。

1990年の3月に中学を卒業し、4月から日大豊山に進学し、5月には中学の同級生のM君の紹介で近所のホームセンターで数か月バイトをします。確か時給は700円。当時としては割のいいバイトでしたが、休憩時間は昼食時ぐらい。研修というかろくな説明もなかったのでどこに何があるかろくに分からないまま働いておりました。そして最悪なのが給料日は次の月の25日。ほぼ二か月ただ働きです。現金収入の店なのに!

そして1990年、高1の夏休みから塾長の紹介で都内の某東証一部上場の会社に塾長と面接に行きます。その会社は不動産会社なのだが、都内で映画館や劇場の売店も経営。 私はその売店での店員としての採用になります。

今思うと所沢の小さな塾の塾長、当時三十代後半ぐらいが何故に東証一部の会社を知っていたのか?しかもここのバイト先は私がらみで来た同級生ともう一組の高校生以外は高校生を採用しない。縁故採用でしか高校生を採用しないところなのです。尚、学習塾にはほかに勿論同級生も通っておりましたが、この東証一部の会社でバイトをするのは私だけでした。塾長が他の生徒に紹介しなかったのか、それともほかの生徒が断ったのかは今では知る由もございません。

配属先は大きく分けて、有楽町マリオン内の映画館、日比谷の劇場と映画館、新宿の映画館と上野の映画館(のちに渋谷も加わる)。私はその中で日比谷の劇場と映画館に行かされました。劇場とは東京宝塚劇場と日生劇場があり、映画館は日比谷スカラ座など。まずは東京宝塚劇場からスタート。ここで厳しくしごかれます。

ニューヨーク、学習塾、そして売店。三つの矢ではないですがこの三つが揃わなければ今プラハにはおりません。

つづく

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明けましておめでとうございます

遅くなりましたが明けましておめでとうございます。 本年も宜しくお願いします。 昨年の12月13日から1月13日まで日本に一時帰国しておりました。 今回は帰省と仕事の両方でしたがあっという間の1か月でした。  今回のポイントは初の種子島訪問でした。