2018年3月29日木曜日

分岐点④

今回は謙遜無しの武勇伝の序幕です。武勇伝と言えば前に書いた統一テストでの後ろの席のK君の日本史から地理への当日変更と前の席のK君の大学進学。これらは私的には杉原千畝ごっこでした。いい奴を助ける。他の付属の生徒に進学させるのなら同じクラスの仲間を進学させたい。しかし、これから書くのは誰も助けない自画自賛なのです。
 

高校1年生の夏に東京宝塚劇場の売店でバイトを始めたころは宝塚劇場で精一杯。しかし、歳を重なるにつれ、バイト歴が長くなるにつれ、活動場所が変化します。因みにその当日東京宝塚劇場の担当でも混んでいる映画館があるとその時間に合わせてヘルプに行かないといけない場合があります。特に優秀な販売担当クラスのバイトは戦場を幾つか転々とします。その間不在の映画館では残りのバイトがポップコーンを詰めたり、次の戦闘準備をしまします。逆に言えば販売担当のプロは準備をすることはなく、常に動いている状況です。

当時のバイトのドンは専門学校経由で大学入りした8歳上のSさん。彼は私が高校1年時に大学1年生でした。しかし当時24歳。他の大学生より年上だったので完全に将軍クラス。戦国武将で言う織田信長です。Sさんは清瀬在住ということもあり、帰りも一緒の電車が多かったですし、非常に男気がある先輩で飲みに行っても毎回彼がほとんど出します

Sさんが入ったころはバイトが定着していなかったのか他にはほぼいない状況。あとから入るバイトは年下というのもあり、そのため彼がディスペンサーでコーラを作っているどころか作り担当でさえ見たことが無い。それだけ一番手の販売担当を長くやっておりました。しかも用兵のプロなので、バイトに指示をてきぱきと出す。

Sさんは当時誰もが認める戦闘のプロ販売担当の一番手だったのですが他の映画館にヘルプで行くことは少なく常に日比谷スカラ座にて奮戦しておりました。逆にSさんの次のクラスにいた私はいろんなところに行かされます。東京宝塚劇場の後は暇なニュー東宝シネマ2へ。そして数年後には芸術座の売店専門に。芸術座はお芝居専門の劇場なのですが、ほぼ固定の社員さんでバイトが行くのは非常に稀だったんですよね。私が入った当時はバイトが行くところではない謎の劇場でしたが、途中からバイトが長期派遣されることになります。

Sさんは年もだいぶ上だし、物事をはっきり言う方だし、それに日比谷スカラ座の城主と仲が良い。当初は東京宝塚劇場が戦艦大和で日比谷スカラ座が武蔵かそれ以下なのだが、途中から日比谷スカラ座が一番艦に。Sさんは渋谷に東宝系映画館ができた当初は助っ人でオールナイト興行に行っていたりしましたがほぼ日比谷スカラ座から動かないイメージ。逆に私は良いように使われました(笑)。

その典型的な例がジュラシックパークの時です。この映画は有楽町マリオンの日本劇場で上映が決まっていました。しかし日劇は我々の担当外。本来なら関りがないのですがこの時バイトが大量に辞めたか何かで戦闘力が著しく低下。そこで東京宝塚劇場内の事務所は私を派遣することに決定します。これが大学1年の話です。1993年の夏でした。この時Sさんは四年生で就職活動中。こちらは4年目でSさんの次に長い歴戦のプロ。しかし、年齢が若いこともあり、Sさんみたいに外部遠征の経験はなく、販売一番手の経験は多くあるが、Sさんと比べたら経験値は雲泥の差。一軍クラスであり、ベストナインではあるが、MVPクラスどころかタイトルホルダーでも無いような状況、

そんな状況で日比谷から派遣されたのは私を含めバイト3名。私以外はそこまでの戦力ではない。年上の新人フリーター男性と年が一つ上の大学生。この当時の日比谷軍は主力級の大学生が就職で抜け、完全な過渡期。しかも夏なので新人もほぼ経験がない状況。そんな状況下なのに担当エリア外の日劇に派遣をします。その派遣軍のエースは私です。19歳。

何故私が派遣されたのか?
  • Sさんが就職活動中だから仕方なく二番手の私が派遣された。
  • ジュラシックパークは合田しか捌けないという声が出た。
  • 日劇なんて我々には関係ない。合田でも派遣しておけ、だった。 
真相は闇の中ですが、ジュラシックパークで私はタイトルホルダーになるどころではなく、一気に日本記録を作るだけの奮戦をします。
  つづく

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明けましておめでとうございます

遅くなりましたが明けましておめでとうございます。 本年も宜しくお願いします。 昨年の12月13日から1月13日まで日本に一時帰国しておりました。 今回は帰省と仕事の両方でしたがあっという間の1か月でした。  今回のポイントは初の種子島訪問でした。