2018年6月23日土曜日

三沢光晴


二日連続のプロレスネタです。
プラハに来てもよくプロレスを見ておりましたし、一時帰国の際に何度か生観戦したこともございます。

プロレスとの出会いはわが一家がNYから帰国し、父の会社の社宅があった東久留米に住んでいる時。その時に全日本プロレスがゴールデンタイムに放送しており、まずは二代目タイガーマスクにはまりました。

その後は天龍革命が始まりましたが、ジャンボ鶴田を応援。高校では新日、猪木信者はクラスメイトにおりましたが、私は全日派。この当時の新日は猪木がリタイアし、闘魂三銃士、佐々木健介、馳浩のほかに藤波辰爾も頑張っており、外国陣営が厚い全日と違い、日本人レスラーの層が厚かったです。

G1-CLIMAXも人気がありましたが、全日の方はシングルナンバーワンを決めるチャンピオンカーニバルを中止し、常に熱戦は年末の世界最強タッグか三冠戦のみ。チャンピオンカーニバルを続けなかったのが残念でした。

常に聖鬼軍のファンで、鶴田が引退すると特定のレスラーを応援することはなかったです。その後大量にNOAHに移籍後はノアを観るようになる。正直この時代の四天王+秋山はほかの追随を許さない状況でしたね。

しかし、ノアの衰退の原因は新人が育たないこと。しかも入団してもジュニアヘビー級ばかり。結局力皇以外でノアでデビューしたヘビー級は潮崎豪のみ。本来なら丸藤とかがジュニアで頑張り、ヘビー級では別のレスラーが引っ張った方が理想でした。そこで悔やまれるのが三沢さんの死。正直、彼は既にセミリタイアしておけばよかった。ビッグマッチ限定出場にし、社長業に専念さえしておけばあの事故はなかったかなと。三沢さん亡きあとのノアは衰退するスピードが速すぎ。結局これも新人が育たなかったせい。


三沢さんはタイガーマスク時代、まずデビュー戦はタイガースープレックス(正式はタイガースープレックス84)で勝利。そして虎ハンターの小林邦明を1985年にはオリジナルのタイガースープレックス85で勝利。その後ヘビー級転向用にタイガードライバーを開発。

しかし、タイガードライバーもいつの日には繋ぎ技となり、観客の誰もタイガードライバーの態勢に入っても湧かない。そしてタイガードライバーを放てないジャンボ鶴田用にフェイスロックを開発。鶴田から日本人初のギブアップを奪う。そしてノアの晩年はエメラルド・フロージョンを開発。当初は秘密兵器扱いでしたが、その後は雪崩式なども開発し、頻繁に出すように。天龍もそうですが、なぜか晩年は頭から真っ逆さまに落とす技を好みますね。逆にデビューから引退まで十八番が変わらなかった一流レスラーは長州力と蝶野だけかなと。藤波さんも腰を痛めてからドラゴンスリーパーに移行したし、鶴田も最初はジャーマンでしたしね。猪木も晩年はチョークスリーパー。武藤もランディングボディプレスから足四の字を経て、シャイニングウィザード。

結局三沢さんの秘密兵器はタイガードライバー91(これは返されたのを見たことがない)とタイガースープレックス85(これも自力で返したレスラーはいないかなと)。でも、説得力十分だったのがランニングエルボー。衰退していたエルボーをフィニッシュホールドに昇華させたのは流石。

0 件のコメント:

コメントを投稿

明けましておめでとうございます

遅くなりましたが明けましておめでとうございます。 本年も宜しくお願いします。 昨年の12月13日から1月13日まで日本に一時帰国しておりました。 今回は帰省と仕事の両方でしたがあっという間の1か月でした。  今回のポイントは初の種子島訪問でした。